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武蔵野航海記

武蔵野航海記

石田梅岩

正三が旗本出身の禅僧であったのに対し、石田梅岩(ばいがん 1685~1744)は百姓出身で大阪の商家の番頭でした。

梅岩が番頭として活躍していたのは、元禄のバブルが弾けた後の低成長期でした。

元禄時代に放漫経営をした商家が非常な経営危機に直面していた時代で、梅岩は商家の番頭を止め心学の講義を始めたのです。

梅岩は朱子学徒だと標榜していましたが、儒教の信奉者といった雰囲気は持っていません。

当時は日本の知識人の全てが朱子学を学んでいましたから、朱子学徒だといったところで何の意味もありません。

現在の日本で「私は民主主義者だ」というのと同じようなものです。

実際は経営コンサルタントだったと私は理解しています。

彼は読書家で、儒教・仏教・神道などの本を多く読んでいますが鈴木正三の影響を強く受けています。

そして正三の著書を復刻しています。

梅岩は大阪で心学塾を開き、大商人たちを多く弟子にしました。

弟子の手島堵庵(とあん)の時には、全国各地に77の心学学校が出来るまでに普及しました。

寛政の改革を行った筆頭老中松平定信は心学を大いに評価し、弟子の一人を江戸に招きました。

そこでこの弟子は、江戸の人足寄場の教諭になり無宿人への教化にあたりました。

これを機に、従来は商人の学問だった心学が武士にも普及していきました。

心学は尊皇思想と並んで幕末最大の思想だったのです。

梅岩は、人間には二つの心があると説きます。

心Aは外界を知る心であり、心B(本心)は心Aを観察し批判する心です。

二つの心が共に自然の中にいるということを悟ると、心Aは心Bに接近しついには一体となります。

これが本心通りに生きるという状態で、自然のなかで自分がいるべき場所を心得た状態です。

これも明恵上人の「あるべきようは」と同じです。

自然は善であるので慾をすて自然の秩序に従えばよいわけですが、自然にはすべて形があると梅岩はいいます。

馬は草を食べる「形」を備えていますから、誰に教わらなくても本能のままに草を食べるようになります。

人間は働くという「形」を持っていると梅岩は主張するのです。

労働により自己の生活を支えるのが自然の秩序に従う道だと考えるのです。

この「形」に従うのが自然だという考えは、無意識のうちに日本人に浸透しています。

形に合わないことを「不自然だ」としています。

サラリーマンはサラリーマンらしい服装をしなければなりません。

言葉にしても、形にはまっていないと内容とは無関係に「不自然だ」「そこまで言わなくても良いだろう」という反応が返ってくるのです。

労働をすることによって人間は「形」にはまり、自然の秩序と一致できます。その結果心が安定し癒されるのです。

会社で実際には仕事がないのに何かしていないと不安になるので、絶えず動き回ることになります。

この「働いている人」と単に「動いている人」を見分けることから始まったのがトヨタのカンバン方式です。

今、フリーターやニートが増えたと問題になっています。

これは仕事中心でない日本人、即ち「形」を守らない日本人が増えたことを皆が心配している部分もあるます。

「正業に就く」即ち仕事中心に生きることを日本人は重視します。そして働いていない人を評価せず、その人格を疑います。

アメリカも正直に働くことを大いに評価している社会です。

アメリカの最初の移民がカルヴァン派のプロテスタントだったから当然の話です。

しかしアメリカは日本ほど働かないことに抵抗感がありません。

これは宗教的な背景が異なるからです。

キリスト教では、働くことは信仰の一形態で目的ではありません。

隣人を幸せにすることが目的ですから社会奉仕やキリスト教の宣教などでも目的を達成できます。

働かないでもこれらのことを行っていればやましいことはないのです。

一方日本では働くことで精神を安定させているので、余暇や社会奉仕活動はこの代替にならず精神の癒しになりません。

日曜日に仕事を休むのはヨーロッパの習慣で日本でも明治になって取り入れたのですが、これは本来宗教的な義務です。

ユダヤ教、キリスト教及びイスラム教の神は6日間で世界と動植物及び人間を作りました。

そして七日目を安息日と定めたのです。

安息日とは本来仕事をしなくて良い日ではありません。

仕事をしてはいけない日なのです。休息をして神のことを考えなければならない日です。

ユダヤ教の安息日というのは日没から始まります。

私がテルアビブで仕事をしていた時のことですが、タクシーを雇って郊外に行き、帰りが遅くなってしまいました。

そうしたらタクシーの運転手が恐ろしいほどのスピードで車を走らせるのです。

日没までに私をホテルに送り込み自宅に帰って休息しないと信仰上の大問題になるからです。

翌日の日中は全てのレストランや商店は店を閉じています。

私はホテルのマネージャーに教えてもらった外人用に安息日でもやっているレストランで食事をするために部屋を出ました。

一階に下りるためにエレベーターに乗ったらいつものエレベーターボーイがいないのです。

そしてエレベーターが自動的に各階に止まってドアを開閉しているのです。エレベーターボーイを休ませなければならないからです。

アメリカでも似たようなことがあります。

宇宙船で初めて月に行ったアームストロング宇宙飛行士は若い時に離婚しています。

結婚した相手が敬虔なカトリック教徒で安息日はベットで寝ているだけでなにもしないのです。

妻ほど敬虔でないアームストロングは家事もしなければ一緒に遊びもしない彼女にいらだって「出て行け」と怒鳴りました。

そうしたら彼女は出て行って帰ってこなかったのです。

社会奉仕活動も信仰の一環です。隣人を愛する行為を行っているのです。

ところが日本では、休むことや社会奉仕は宗教的行為ではありません。

まさに「余暇」であり暇つぶしです。

これによって精神的に癒されることはありません。

ところが今の日本人は何故自分達が一所懸命働くのかその沿革を忘れてしまっています。

鈴木正三や石田梅岩の名前を知っている日本人は少ないでしょう。名前を知っていてもどんな人か知らない人が大半だと思います。

勤労の思想の沿革が忘れられたために、「働いていればいやなことを忘れることができる」という癒しの感覚だけが残ってしまったのです。

そしてこれが日本人の思想の根源的なところから来ていることを忘れてしまっているのです。

そうして「欧米ではもっと休んでいるから日本人も休まなければならない」と強制的に休ませる運動を始めてしまいました。

私はこの話をアメリカで聞いて本当に吃驚しました。

他の国では国民を働かせようと必死の努力をしているのです。

この日本人の貴重な精神的資源をこわそうとしているのです。

これは日本人から癒しを奪う行為です。

このたわけた運動が黒字減らしにどれほど役に立ったというのでしょう。

今日本の貿易収支は長期的に減少傾向です。貿易収支だけ見たらもうすぐマイナスになります。

現在の黒字は特許使用料や投資に対する配当など過去の蓄積によるところが多いのです。

この二年ぐらい国際収支が改善されていますが、これは特殊要因のためであり、いつまでも続くものではないことは日本人も気がついています。

日本の収支が赤字になってからまた日本人を働かせようとしても遅いでしょう。いったん破壊された勤労の精神は元に戻りません。

過労死というのは別の要因から起きるものです。

同じ釜の飯を食う一族に対する過剰な忠誠心あるいは仲間はずれに対する恐怖から起きるものです。

日本人は明治維新と敗戦により過去を全部否定したため、自分達の思想がどこから来たか分らなくなっています。

その結果このような愚かなことが行われてもそれがもたらす結果を予想できなくなってしまっているのです。

梅岩は倹約を強調しました。

梅岩が社会で働いていた18世紀前半は、元禄の高度成長期が過ぎ企業経営には厳しい時代でした。

そこで商家の番頭であった梅岩は、倹約の必要を痛感していたのです。

梅岩は単に経費節減による自己資本の充実を目的として倹約を唱えたわけではありません。

主人の浪費は従業員のモラルを低下させ、規律が弛緩してついには倒産に至ることを心配したのです。

消費には衣食住という生存のためのものと、虚栄を求めるものとがあります。

虚栄は本心を曇らすから良くないわけです。倹約を守れば正直な心を維持できます。

正直とは嘘をつかないという意味ではなく、自然の秩序と一致している状態(本心どおりの状態)を云います。

自然の秩序と一致した状態にいれば、従業員の使い込みやサボタージュといった危険な目に遭わないのです。

梅岩の言う正直とは具体的には、人のものと自分のものを区別し貸し借りをきちんと決済することをいいます。

また約束を守ることでもあります。

梅岩の教えの中には近代資本主義の原則がすべて入っています。

 わき目も振らずに働く(行動的禁欲)
 所有権の確立
 契約を守る
 倹約による資本の蓄積

この梅岩の教えが幕末に日本人の常識になるまでに普及したことにより、明治維新後の日本の資本主義の大発展の精神的準備が完了したのです。

梅岩は日本の国生み神話を、自然秩序生成を説明している物語と捉えました。

そして国産み神話の代表として天照皇太神宮を毎朝拝んでいました。

このことから心学を学ぶ者は皆、皇太神宮を拝むようになりました。

この天照皇太神宮礼拝が一般化されるに連れて、自然秩序生成の「象徴」という意味が忘れられ宗教化されていきました。

そして尊皇攘夷と心学が明治になって結合し、天皇制を支える一つの柱となっていったのです。

プロテスタント諸国と日本は、キリスト教と仏教という全然違う背景から同じような近代資本主義の思想的基盤を生み出しました。

キリスト教といってもプロテスタントという厳格な宗教からこの思想が生まれました。

日本の仏教はお釈迦様の教えとは大きく違っていますから、他の仏教諸国では勤勉の思想は生まれませんでした。

資本主義らしきものは過去何回となく発生しましたが、発育しなかったのは労働者と経営者を獲得できなかったからです。

即ち、働くことが宗教的救済であると感じわき目も振らずに働く労働者と節約による資本の蓄積とモラルの高揚を図る経営者が出なかったからです。

日本とヨーロッパの近代資本主義の精神は、プロテスタントと日本的に変容した仏教という違う基礎に基づいています。

したがって両者には違う部分もあります。

プロテスタントの信仰の本質は「すべては神の栄光の為に」です。

神の意思に沿うことが真面目な信者の生きがいです。

従って、一所懸命に働き質素な生活を送ること自体は目的ではないのです。

そして仕事を通して得られた人間関係や社会的関係は相対的なものです。

一方仏教では、仏が天地を創造したわけではありません。

従って神に作られた被造物と言う考え方もありません。

だから、「被造物の神化は許されない」という考えもありません。

キリスト教やイスラム教では、神でないものを崇拝することは「偶像崇拝」として徹底的に排撃されます。

日本では「偶像崇拝禁止」の発想がありませんから、働くこと自体が目的となってしまうのです。つまりは働くことが神になるのです。

前にも書きましたように、日本では「同じ釜の飯を食い」共に働く者達が同族になり共同体を形成します。

働く集団というのは、本来は機能集団です。

自動車を作るとか外敵と戦うとかいう目的のために存在する集団です。

日本でも企業や軍隊も機能集団としてスタートします。

ところがそれがいつのまにか共同体になってしまうのです。

こうなると共同体に所属しているという身分を維持するためさらには共同体を繁栄させることが目的となります。

共同体となった企業では、企業内の規範のほうが外の規範よりはるかに重要になります。

企業外の人間が死のうが狂おうが、それより企業の利益のほうが大切だということになってしまうのです。

企業内で頻発するクレーム隠しの原因はこれです。

帝国陸軍を外からコントロールできなくなったのも同じ原因です。

今の日本では企業は皆巨大な共同体になり、これに対する歯止め機構はありません。

企業の要請が日本全体の要請よりも、社会全体の要請よりも優先するという事態になっています。


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